Lyri*Cache

好きなものを好きなように。

察してちゃんは、大いに反省する

前々回、前回、今回と文体があちこち行ってますがあまり気にしないでください。長文を書くのが久しぶりで、以前どうやってブログを書いていたのか思い出せません。twitterは口語なので、ちょっと違うんですよねー
話題によっても「~だ」「~である」調が合うときと「~です」「~ます」が合うときがあるので、その辺もゆるくいきたいです。

最近思うところあって、一週間ほどtwitterを全く覗かない、ってことをやっていました。
すっかり日常の一部になっていて、暇さえあればチェックする、みたいな癖がついてしまっているので、最初はすぐに禁断症状が出るんじゃないかと思っていたんですが、意外。全然問題ありませんでした。なんだ、twitterっていらないものなんじゃん。
しかし、必需品ではないtwitterもないと困ることがない、わけではなかったりもします。今回はそれに関わるちょっと考えたこと。

 

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photo by eyewashdesign: A. Golden

 

 
私のtwitterの使い方は、

  1. フォローしている人全員分のリスト(Home)
  2. ツイートを見逃したくない人のリスト(Main)
  3. 情報収集用リスト(Artist)


を行き来して見ている感じです。他にも細々しくリストがあったりしますが、基本常時活用しているのはこの3つ。
twitterを見ないということはイコールこれらの情報をまるっと捨てることなんですよね。
何が起こるかというと、

  • 友人たちの動向がまったくわからない
  • 活動ジャンルの情報がまったく入ってこない
  • イベント関係の情報も当然入ってこない


ざっくりこういうことになるわけです。
えっ、この商品もう予約始まってたの?あれ、なにそのキャンペーン、知らない。あ、好きなアーティストが急遽イベント出演:決定?その日はもう予定入れちゃったよ……
こんな事態が発生したわけですが、それでもまあ、ちょっと困ったな、くらいでした。予約日を忘れていたくらいなら取り返しもつきますし。
でも一番困ったのは、最初にあげた友人たちの動向がわからないこと。


SNSのおかげで疎遠になっていた友人と交流が復活した、という人は多いと思います。私も昔好きだった作家さんのアカウントを見つけたり、学生時代の友人と長く付き合えているのも、SNSのおかげ。
twitterを見ていれば、普段全く会わない、それこそ年に一度会うか会わないか、という人の近況でもわかります。もちろん、その人がある程度頻繁に発言する、という前提はありますが。
すっかりその状態に慣れてしまっていたので、いざ見ていない、となると、どのタイミングで友人に声をかければいいのか、うまくつかめなくなっていました。
twitterを見ていれば、わかるんです。「あ、今忙しそうだな」とか「今ちょっと落ち込んでるみたいだな」とか。状況を見ていれば声をかけるタイミングもなんとなく掴める。だって、テンション高くどうでもいい話を振ったら相手は私生活ですごく大変な状態でそれどころではなかった、なんて回避できるなら回避したい地雷です。
でもよく考えると、これってお互いがお互いの呟きを見ているだろう、っていう意識が大前提にあるんですよね。


察してください、ってよく聞くし、私もたまに使ってしまう言葉なんですが、よく考えればすごい言葉だなと思います。
察するためには、情報・価値観をまず共有しなければならないわけで相手にそれを頼むというのは『私の性格・価値観・状況を把握した上で私が望むように行動してください』って言っているのと同じなんですよね。
もちろんそれが必要な場面もあります。日本は気遣いと先回りの文化。あといえばうん、くらいの行動が必要なこともあります。でも、自分も他者も当たり前のように自分の情報を発信するようになった今『知っていること』が意識の中で当たり前になっているのではないかな、とふと思ったわけです。
twitterなんて、それぞれのTLで流れ方も違えば使い方も違います。一日に一度見るだけ、という人もいれば、常時監視している、なんて人もいるでしょう。でも自分の中では一度発信したことはイコールフォロワーさんなら知っているはず、と無意識に思っていたのではないかと。

察してもらうのって楽です。面倒くさい説明をしなくても、勝手にあちらが考えて動いてくれます。でも、それを『当たり前』だと思っていると、察してもらえなかったときに落胆してそれはやがて苛立ちへと変化する。『察してください』という我侭のために、勝手に傷ついて勝手にイライラするってなんだかなあって思います。
そして情報を当たり前のように発信し続けていることで、無意識にそういう感覚になっていたのではないかなーとtwitterから少し離れて考えたわけです。

言わなきゃ分からないんです。察して欲しいと思うよりも、伝えるスキルを磨きたいものです。まあ、察するスキルを磨くことも大事だよな、と思うんですがそれを勝手に人に求めちゃいけませんよね。

ちょっと話は変わるんですが、『察してください』の延長の察してふぁぼ、とか察してブクマとかもやめようって思いました。ふぁぼしたんだから好き!って気持ちは伝わってるよね、とか、ブクマしたんだから気に入ってるってわかるよね、とか。
言わなきゃわかんないんです。そりゃ自分もしてもらえたらすごく嬉しいですが、1000個の無言の星よりも、一言の「好きです」のほうがやっぱりエネルギーがあるんじゃないかなあと。
感想を伝えることもエネルギーが必要ですが、感動した気持ちまで省エネしたくない。そちらのほうがもったいないです。
言葉を紡ぐことを面倒だと思ったら、そこから感じる心まで退化していきそうで、それが何より怖いなあと思います。察してちゃんにはなりたくないものです。反省。